演武大会へ向けて始動です
月曜日から本格的に齋藤さんと技の内容の確認を始めました。
福田先生の教えを守って基本技をきっちりやりたいと齋藤さん。
すばらしい考えだと思います。
人目を引くことばかりを考えての演武はみっともないものです。
合気道を知らない一般客は楽しませる事ができるでしょうが、
演武に視線送る多くは合気道修行者達なのです。
今行われた技が「きちんと効いているのか」「受けが勝手に飛んでいるのか」
は本当の修行者ならわかります。
「演武をやると技が盗まれる」
と植芝翁が言ったのを福田先生が聞いたのは、翁が合気道普及についてはまだ逡巡していたころでしょう。
技というものは門外不出だという武道家として考え方と、普及は全く逆の考え方ですからね。
でも今や合気道は、各合気道流派から大量の教則本やDVDが出回っていますからね
技というものは門外不出だという武道家として考え方と、普及は全く逆の考え方ですからね。
でも今や合気道は、各合気道流派から大量の教則本やDVDが出回っていますからね
「技を盗まれるから演武は大先生が言うように適当にやるんだ」は見当違いの考えだと思います。
私は「いつもより高く飛んでま~す」的な派手な受け身や芝居がかった演出、
仕手が何もしていないのに受けが「うおゥ」と大きく崩れたりする演武を見るのも辟易します。
私の先輩の小松崎さんはそれを「演武」ではなく「演舞」と言いました。
私の先輩の小松崎さんはそれを「演武」ではなく「演舞」と言いました。
演武は見世物の要素が濃いから少しは盛っているのだとしても、この人たちは普段から基本的にその方向で稽古をしているんだろうなぁと私は考えてしまいます。
果たしてそうじゃないにしても、私のような単純な人間には誤解を生んでしまいがちです。
「泥臭くてもいい、基本をちゃんとやる演武が好きだな。
小島さんが演武するなら泥臭い基本技を見てみたいな。
基本技を演武として人に見せられるものに仕上げられたら本物ですよ。
一教とか、いつもやってる初歩の技は演武の素材としては退屈かもしんない。
でも福田先生の基本技はどれもこれも見ていて飽きないでしょ?あれが本物の技だよ。
派手さはなくても技の奥に本物が見えるから魅了されちゃうんだよ。」
以前の道場にいた小松崎先輩が演武大会が近づくと一緒にお茶を飲みながらよく話してくれました。
私も齋藤さんも意を同じくしていますので、そういう演武の組み立て方と稽古をしています。齋藤さんは座り技をセレクトしてきました。私は肩取りをチョイスです。
型の稽古ですが、毎度同じ事の繰り返しではないんです。
少しでも間合やスピードが変わったら違うものになるのです。
福田先生は「覚えて忘れる」と言います。多分、福田先生は大先生から教わったことだと思います。
福田先生〜いつかの片手取りの稽古のときに
「毎度、同じになんてできないですよ。
まず初心者には基本の形は教えますけど、状況はいつも違うんです。
小島さんの掴み方もついさっきと今は違うでしょ?
(確かに力を加える方向を変えてみてる)
そしたら技だって少し変わりますよ。(ヒョイっとぶん投げられる(⌒-⌒; ))
覚えたら忘れるんです。基本は基本、でも頭が固まっちゃダメなんです。
この技は何センチ動いて、角度が何度で、そしたら上手くいくというわけには
いかないんですよ。技は覚えたら、忘れるんです。」
このお話は深いです。基本はとにもかくにも大事なんですが、あまりに形に捕らえられすぎても障害になってしまうことがある。
覚えて忘れるためには、状況に対し考えなくても体が反応するようにならなくてはいけません。それには近道はなく稽古を積むしかないんです。
だから先生は84歳の今でも弛まぬ稽古をしているのです。
とにかく稽古稽古なのです。